Appleへの憧れと失望

Appleへの憧れと失望

楓はWindowsと共に育った。

Microsoftは友であり、パソコンの重要な部品であるOSを提供する大切な存在だった。

2000年代前半、より正確には楓が初めてパソコンを触った2003年はWindows XPの全盛期であった。インターネットの普及でアングラサイトが複数生まれ、その中でWindowsのハックが盛んにおこなわれていた。

当時、楓はAppleの存在を知らなかった。(なお、不思議なことにGNU/Linuxは知っていた)

父は自作ユーザーで、高いAppleのパソコンを買うことはしなかったからだ。

そんな楓がMacintoshについて知ったのは2005年。

洗練されたケースデザインを持つPower Mac、一体型のiMac。

どちらにも憧れた。購入などできなくても、手に届かないゆえの羨望があったのだろう。

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過去のApple

かつてのAppleは楽しかった。見ていただけでも。

そこから、iPod ClassicやiPhoneなどについても知っていくことになる。

なんて素晴らしいものを開発する会社なんだろうとずっと感心していた。

手の届かないブランドとして、最高峰として常にAppleは楓の中にあり続けた。

だから、中学の時にわずかなお金を出してiPod Touchを買った時は嬉しかった。

しつこいようだが、Appleは楓の中で常に高いところに居続けたのだ。

Appleへの失望

だが、今のAppleには魅力を感じ得ない。多分、2015年ごろからだろう。

一つの原因は、身の回りにApple製品が増えてきたというのもある。

iPhoneが日本で大量にバラまかれ、テレビで盛んにMacbook AirのCMを放送していた。

貴重だからこそ、高い位置にあるし魅力を感じていたのだ。

ただ量産されて溢れてしまってはもはや価値を見出せなくなった。

だが、それだけなら喜ばしいかもしれない。自分に手に入るチャンスが増えるのだから。

しかし現実は違った。失望の原因は一つではなかったのだ。

Mac Proと云えば楓にとってはPower Macと同じ見た目の2012年モデルまでを指した。

Appleには憧れていたが、Mac Proがゴミ箱型になったのは2015年まで知らなかった。

あれを見た時は唖然とした。ただのバケツ。機能美の欠片も感じられなかった。

冷却性能がいいとか、省スペースとかそんなものを楓は求めていないことに気が付いてしまった。

Appleの製品は美しい。使いやすさも十分に確保されているように見えた。そしてその代償の値段だと思っていた。

だが、Apple製品の値段を吊り上げる原因の一つにアルミボディの採用があることを知ってしまった。

見た目は美しいかもしれないが、アルミボディにしても使いやすさや耐久性は関係ない。

現在のApple

最近、Mac Miniの2018が発売された。従来のMac Miniと違って拡張性がまるでない。

楓はこの数年の間にパソコンの機械いじりに取り掛かるようになった。

拡張性がないとは即ち何も触るところがないということ。

多分、私が自作を続ける限りMacを触ることはないのだろう。

Linux

高く永遠の理想であり続けたAppleは何時の間にか、目指す気すらない無関心になり下がっていた。

自分の嗜好の変化なのか、あるいはAppleの魅力はもはやないのかは判らない。

ただ確実なのは、楓にとってAppleはもう最高峰でも憧れでもないということ。

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